前へ
 
 

4. 遊園と戦争

遊園の盛況とは裏腹に世間では二二六事件や盧溝橋事件が起こり、戦争の影が身近に忍び寄ってくる。

盧溝橋事件から始まった日中戦争が長引く中、1938年(昭和13年)には国家総動員法が成立施行され、徐々に木炭などの生活必需品や食料などの配給制が始まり、国内でも戦時統制が厳しくなってきた。戦争の長期化は他国の介入を招き、次第にアメリカ、イギリスとの戦争も避けられない状況になってきた。

粟崎遊園の公演内容も「軍国ショウ」1940年(昭和15年)、「軍国友情哀話 甦生る魂」(同年)など戦時色の強い内容のものが多くなってくる。また、戦時中の1943年(昭和18年)は関西新派による建艦資金献徳特別公演と題した公演を行ったようである。

 

アメリカとの戦争の開始とともに遊園は閉鎖されたと伝えられているが(高室信一の「粟崎遊園物語」にはそのように書かれている)、実は閉園はしばらく後のことだったようである。昭和17年の公演案内パンプレットは見つかっていないが、昭和18年の夏のパンフレットが見つかっているので(「風と砂の館資料から探る、粟崎遊園九十年」より)、この年までは遊園として存続していたと思われる。

その後、1944年(昭和19年)の大東亜建設博覧会の会場となったのち、日本タイプライターの疎開工場とされ、また軍の鍛錬施設として徴用される。

 

大正から昭和にかけて一時期全国各地で花開いた遊園施設は経営不振や戦争の影響で多くが閉園し、農作地に転用されるなどした。

戦時統制の為、全国の私鉄は合併、整理され、金石電気鉄道と浅野川電鉄は北陸鉄道へ合併されることになった。しかし当時の浅野川電鉄の社長藍元義範は合併条件を不満として断固拒否した。しかし、戦争が終わった年の12月、浅野川電鉄は北陸鉄道に吸収合併される。当時の北陸鉄道の社長は12年前に遊園の競売で争った林屋亀次郎であった。

戦後、遊園は再開されず、1951年(昭和26年)にオリンピック博覧会が遊園の敷地を利用して開催されるが、その後遊園の建物は売却または解体された。

本館の建物一部は私立藤花高等学校(現在は金沢龍谷高等学校)などに移設され、浴場のタイルなどは解体後に職人が保管し、その後内灘町に渡った。劇場にあったピアノは長らく金沢市民俗文化財展示館(金沢くらしの博物館)に保管されていた。

 

遊園の閉園は浅野川電鉄が北陸鉄道に合併し経営方針が変わった事と、遊園事業は浅野川電鉄の経営報告書を見てもわかるように浅野川電鉄が買収してからずっと赤字であり、電鉄本体の旅客営業の黒字で補填していたようである。北鉄は遊園が経営の足枷だと思ったのではないだろうか。

平澤嘉太郎が遊園を経営していた時代は本業の材木業の利益で穴埋めしていたのだろう。北鉄に合併されるまで、浅野川電鉄としては終点に遊園があったからこそ電鉄の乗客数も安定し、なによりも「金沢市民が楽しめる夢のパラダイス」を守り続けたいという創業者平澤嘉太郎の思いを引き継いでいたのではないかと思われる。

 

浅野川電鉄と同じように1943年(昭和18年)に北陸鉄道に合併された金石電気鉄道の涛々園は戦後も別の会社によって運営されていたようである。昭和22年6月発行の「石川観光」p.26には涛々園の広告が掲載されており、社名が新日本産業株式會社特殊事業部と表記がある。涛々園は北陸鉄道から売却されたのではないだろうか。涛々園の正式な閉鎖時期は資料がないため不明である。

 

遊園が解体されたのちの昭和25年、朝鮮半島で戦争が始まり、米軍の武器需要の高まりで日本国内に砲弾の試射場が必要とされ、内灘の砂丘がその候補地となり、激しい反基地闘争(内灘闘争)が始まった。

 

次へ

5. 遊園の残像、新たな時代