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3. 遊園のにぎわい

1933年(昭和8年)、遊園は競売にかけられ、金沢の実業家・林屋亀次郎が落札する。彼はのちに衆議院議員になった人物である。彼は購入した遊園を精神病院として利用しようと考えていた。それに対し地元住民の大変な反対があり、浅野川電鉄が取り戻し交渉を進めたが林屋との交渉ではなかなか折り合いがつかず、林屋は当時の三越金沢支店長に交渉を一任し、結果、浅野川電鉄は落札価格と同じ金額で遊園を取り戻した。(北国新聞 昭和8年12月5日 朝刊記事より)

 

遊園存続のゴタゴタがあったが、1933年(昭和8年)は鴨居悠原作のグランドレビュー「夏のをどり」や「秋のをどり」が上演され、ミラノ・マリコや音羽君子らが活躍し人気を呼んだ。また、それまで金沢尾張町の第二菊水倶楽部に出演していたコミックボーカルグループ藤井とほる一座が粟崎遊園に出演することになり、のちにコミックバンドのはしりである「あきれたぼういず」を結成する益田喜頓、芝利英、丸久須也らが粟崎の舞台に登場した。

1934年(昭和9年)には鞍信一の友人で詩人・人形作家として活躍していた村井武生が呼ばれ、脚本や、舞台監督、短いショーの演出もしていた。のちに彼は遊園の脚本を書いている鴨居悠と同じ北国新聞の記者となる。川上一郎の死や大衆演劇の人気の落ち込みからか大衆座は1935年(昭和10年)には解散し、上演演目は少女歌劇へ重心が移る。

 

遊園では簡易保険での割引を実施し、会社や工場の運動会や慰安旅行などの団体客を呼び込みで夏以外でも賑わいを見せ、土用丑の日の電飾や海水浴場での「変装美人探し」、キノコ狩りと言ったイベントも企画した。

この頃には「赤バス」と呼ばれる個人経営のバスが七尾線宇ノ気と新須崎間を結び、河北潟を船で渡る駄賃船より所要時間が短く、能登方面からのアクセスも良くなった。

遊園に出向く若は金沢市内では上に地味な衣装を羽織って出かけるが、浅電に乗るとそれを脱ぎ、欧米風なモダンなファッション、モボ・モガとなって遊園を楽しんだと言われている。

 

1935年(昭和10年)頃の遊園の人気女優は壬生京子、宝生雅子で、翌年の「マダムの秘密」では桟敷の座布団が飛んだとの表現があるくらい(高室信一氏「粟崎遊園」より)大盛況、喝采を受けたようである。

1937年(昭和12年)には振付に宝塚から青木行雄が呼ばれ、「春の踊り」が大盛況となり、さらに演目は充実していく。その年の9月には宝塚にならって専属の歌劇学校を発足させ、1940年(昭和40年)「日本刀記」では専属の歌劇学校のが大当した。

 

1941年(昭和16年)のパンフレットには「あひる艦隊」、「あきれたぼういず」や「ミスワカナ・玉松一郎」の公演予告がある。当時音楽の合間にギャグやコントを挟むスタイルのバンドが大流行していた。これは戦後のクレイジーキャッツやドリフターズなどのコミックバンドに繋がる流れである。「あきれたぼういず」はその始めを作ったバンドであり、「あひる艦隊」もあきれたぼういずと同じく人気のあったバンドである。「ミスワカナ・玉松一郎」も当時人気のあった夫婦漫才コンビであり、この1941年の公演はかなり豪華な内容である。ただ、この時の「あきれたぼういず」のメンバーには益田喜頓はすでに脱退していなかった。

 

 

4. 遊園と戦争

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