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1. 金沢の大衆文化

 

金沢は江戸時代、加賀藩100万石の中心地として、江戸、大坂、京都に次ぐ都市として大いに栄えていた。

太平の世となった江戸時代には京都など上方を中心に文化も栄え、歌舞伎が人気を博し金沢にもその影響は及んだ。金沢の外港であった宮腰(金石)や粟崎では銭屋五兵衛などの活躍で知られるように北前船による交易で日本中の文物が行き来していた。

文政2年(1819)に福助座が建てられ、周辺には飲食店が立ち並ぶ歓楽街となったようである。風紀の乱れにより1838年に芝居小屋が禁止されるが、その後黙認されるようになり犀川沿いに川上芝居、馬場芝居などの常設の芝居小屋が立ち賑わった。また、金石でも芝居は盛んで宮腰や大野、五郎島にも芝居小屋があった。

時代が下って慶応3年(1867)、江戸幕府の開国の影響もあり、卯辰山に養生所や修学所、芝居小屋などの娯楽施設なども整備され、大規模な文化、教育施設となり賑わった。もともと卯辰山は金沢城を見下ろす位置にあることから江戸時代は庶民の登山が禁止されていた場所であり、明治の初め頃までは栄えていたようであるが、廃藩とももに寂れていった。

加賀藩では前田斉泰による尊皇攘夷派の弾圧の影響もあり、金沢は政治、経済の中心とならず、明治に入ってから金沢は他の都市と比べ発展が遅れていった。これは他の都市と比べて武士の比率が多く、明治になって士族となっても職を失った影響もあったようである。

 

開国後、日本は自給自足の社会から世界的な経済の流れに組み込まれ、明治に入って急速に西洋の文化、技術が導入・実践された。その一端として鉄道は建設ブーがおこり、初めは大都市から大都市への鉄道が日本各地に敷設されていった。そののち、明治後期になると大都市から郊外への鉄道建設が盛んになった。その中で箕面有馬電気鉄道の小林一三は鉄道経営のみならず、鉄道沿線の開発を進め、土地・住宅開発、温泉・遊園地の開設、百貨店の開業など様々なアイデアを実践し、他の私鉄からも経営モデルとみなされた。関東、関西の各鉄道会社はこぞって自社の沿線に娯楽施設などを建設し自社の鉄道利用者を増やす戦略を模倣した。この時期に日本でサラリーマン層が誕生し、週末に郊外の行楽地へ観光や、百貨店に行くという文化が生まれた背景がある。

小林一三のもう一つのアイデアである「宝塚劇場」(少女歌劇・レビューをレパートリーとした舞台)も全国に波及していったが、これは鉄道会社だけに限られず、温泉地、料亭、カフェー、百貨店を母体とした団体も現れ、1920年頃以降、様々なところで公演が行われていた。
少女歌劇のアイデアは小林一三が三越百貨店の少年音楽隊を観て閃いたとされている。

 

文明開化後、もともとあった日本の伝統的な文芸とは別のものとして西洋の芸術が導入され、音楽やオペラ、新劇と呼ばれたお芝居が日本人によって行われるようになった。音楽・舞台関連で言うと、1912年、東京・帝国劇場歌劇部にローシーが招かれオペラ公演が始まったが、不評で4年後に歌劇部は解散してしまう。ローシーや日本人の教え子たちはその後も諦めず、様々な形で上演を繰り返した。1917年(大正6年)頃になると田谷力三、原信子、清水金太郎、石井漠らの日本人音楽家・舞踏家たちによって日本語化されたオペラが浅草で上演され、チケット代の安さもあり庶民に熱狂的に受け入れられた。ファンはペラゴロと呼ばれ、ひいきの歌手を巡って騒動も起こるほどであった。

この浅草の劇場を中心に公演が行われていた日本化したオペラは浅草オペラを呼ばれ、ここで活躍した岸田辰彌は1919年(大正8年)に宝塚に入ってのちに宝塚歌劇団の基礎を形作ることになる。

 

近代化の波に遅れていた金沢は1898年(明治31年)、第九師団が金沢城に置かれ、同年北陸本線金沢駅の開業や、1919年(大正8年)以降の市内電車の開通、文化面でも映画やダンス、カフェーの流入など、新しい文化が入ってきた。一方、市内の劇場でも盛んに地役者による歌舞伎などが相変わらず人気で上演されていた。

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